三陸書房
今月号リレー・エッセイ2

(3) 思考と信号 その17

サルは言語を理解するか
佐川 峻
我が家の北側にある家では、「もも」というゴールデンレトリーバーを飼っている。塀越しに「ももちゃーん」などと、たまにイヌ撫で声で話しかけるのだが、そのたびにいつも吠えられる。お付き合いして10年にはなると思うが、一向に慣れてくれない。私だけではなく、我が家の家族は誰が行っても吠えられる。
人間はともかく、動物には好かれるタイプだと自任している私にとっては、かなり心外な事態である。ゴールデンレトリーバーは、元来ひとなつっこい種類のイヌのはずだが、ももちゃんは怒りっぽい性格なのだろう。 しかし、そのおかげで、その家だけでなく、我が家の用心もよく、うちの番犬も兼ねてくれているありがたいイヌだと思うことにしている。
面白いのは、このももちゃんが、こちらの話し声をどうもひそかに聞き耳を立てて聞いている節があることである。例えば、早朝、「ももちゃんは、もう起きているだろうな」などと家の中で話していると、突如、「ワン!」と吠えることがあるのである。壁が薄い安普請の家のせいもあるのかもしれないが、彼女にはこちらの話し声が聞こえるらしい。しかも、自分のことを話しているとわかるようなのである。妻は、「ここで、ももという言葉を使っちゃダメよ。吠えるから」と真顔で言っているくらいである。
ペットを飼っているひとは、多かれ少なかれ、そのペットに話しかけている。鳥やトカゲなどは飼ったことがないのでわからないが、イヌやネコはこちらの意図を相当、理解していると思われることは多い。勿論、話の内容というよりは、身振り手振り、声の調子、顔色などを見て総合的に判断しているのであろう。その点に関しては、こちらが相手の声だけでなく、尻尾のふり方とか、近づいてくる時の様子、眼のやり方などから相手を判断することと全く同等である。
チンパンジーはヒトと同じ霊長類に属し、遺伝子的にヒトに最も近い動物である。チンパンジーとヒトを、遺伝子を構成するDNAの塩基配列で比較すると、99%が共通である。生物学的にはほとんど同じである。
愛知県の犬山市に京都大学霊長類研究所がある。この霊長類研究所では、チンパンジーやニホンザルなどのサルを専門に研究が行なわれている。この霊長類研究所では、チンパンジーを一頭、二頭などと呼ばずに、一人、二人と人間と同じように数えており、個体を「彼」とか「彼女」と呼んでいる。研究者たちにとって、チンパンジーはそれだけヒトに近いのである。
霊長類研究所には、「アイ」という1976年に生まれた31歳の女性の天才チンパンジーがいる。アイは、13歳の時、自分で檻の鍵を開けて脱走に成功したことがある高い知能の持ち主である。三つの鍵を使って、脱走した。一つは仲間のオランウータンを逃がすのに使っている。仲間を救うという義侠心のようにも見えるが、そうではなく、単に仲間を逃がすのが面白くてそうしたと言われている。アイは勿論、それまでは鍵を使ったことはないが、人が使っているのを見て鍵の使い方を理解していた。チンパンジーの知能はそれほど高い。
このアイを中心に、生まれて以来、ほぼ30年間、チンパンジーの言葉や数についての理解・学習能力を調べるために、研究所では「アイ・プロジェクト」が行なわれている。チンパンジーは人間のように音声を巧みに発声できない。母音はある程度できるが、子音の発音をうまくできない。音声の言葉の代わりに、霊長類研究所では、文字や数を図形にした図形文字を使って言語能力を調べている。この図形文字が描いてあるキーボードを押すことによって彼らはヒトに自分が表現したいことを表し、「会話」する。
図形文字は、例えばバナナなどの物の形が描かれたような具体的な図形ではなく、線や四角、円などの図形もしくは、それらが組み合わされている非常に抽象的な図形である。それ自体には意味がなく、ひらがなやアルファベットに近い記号の文字である。この他いくつかの漢字やアラビア数字、アルファベットも一緒に用いられている。それぞれの図形に、リンゴ、バナナなどの食べ物やコップとかロープなどの物、目、耳など体の部位、色などが対応している。「わたし」や「あなた」に対応する図形文字も用意されており、「近づく」という動作の図形文字もある。
アイは、これらの図形文字を理解している。アラビア数字も0〜9まで理解し、小さい順に選べることができる。画面に映った白い点の数を数えることもできる。これらの図形文字を用いて、例えば「二つ並んだ黄色いリンゴ」のような複雑な文を表現できる。
霊長類研究所の松沢哲郎教授が、図形文字のボードを持ってアイと研究所裏の一面にタンポポが咲いている土手に出かけた時、「きれいだね」と1本を折ってアイに見せると、アイは指を伸ばして図形文字の「黄」を指した。「リンゴを下さい」のような要求だけでなく、ヒトと会話もできるのである。
しかし、アイは決して天才ではない、アイができることは、基本的には他のチンパンジーもできると、松沢教授は著書『チンパンジーの心』の中で述べている。
チンパンジーの一種にピグミーチンパンジーがいる。ボノボとも呼ばれる。文字どおり、小さ目のチンパンジーであり、以前は、チンパンジーに分類されていたが、別種であることがわかった。チンパンジーよりも、よりヒトに近いともいわれている。ヒトと同じように口をあけて笑う。
ただし、チンパンジーやボノボの笑い方は、ヒトのように「アハハハ」とハを続けて笑わずに、「ハッハッハッハッ」と区切って笑う。ヒトは息を止めて連続してハを発音できるが、サルは発音するために、息を吐く、吸う、吐く、吸うという動作がいちいち必要なためにそうなる。発声器官がヒトほど発達していない。ヒトの流暢な発声は、大きなのどとよく動く舌が基本になっている。サルはこの点で発達していない。このために言葉をしゃべれないのである。
米国のジョージア州立大学の言語研究センターでは、「カンジ」という名前を持った男性のボノボが研究されている。カンジはレキシグラムという図形文字のボタンがあるキーボードを使って、言葉を訓練された。このレキシグラムは霊長類研究所の図形文字に非常によく似たものである。
カンジは、レキシグラムを完全に理解し、使いこなすことができた。アイと同様に、自動車のドアの鍵をドライバーを使って開けようとしたこともあり、高い知能を持っていることが充分うかがえる。
カンジを研究しているスー教授がレキシグラムで「あなたのボールを川に投げ込める?」と聞いたところ、カンジはボールを川に投げ込んだ。
また、カンジはある時、オースチンという他のボノボがシリアルをもらっているのがうらやましくて、スー教授にシリアルを要求した。その時、カンジは怪物のお面で遊んでいた。スー教授が、「もし、そのお面をオースチンにあげたら、オースチンのシリアルを少し分けてあげる」とレキシグラムで言うと、カンジはお面をオースチンに渡して、シリアルを指した。直接的な要求や指示ではなく、「もし」が含まれる仮定の文章を理解できることは驚きである。
チンパンジーは人間のように言葉をしゃべったり、長い文章を書くことはできないが、訓練すれば、抽象的な記号と単語を理解して、その上で短い文章を作り、相手に伝えることができる。チンパンジーは言語を持っていないが、言語をかなり理解できるのである。
海外の映画では、チンパンジーやゴリラの保護、研究をテーマにしたものがいくつかある。『ハーモニーベイの夜明け』 (1999、米国)では、ゴリラの研究にのめりこみ、殺人までおかす研究者が描かれている。原題は『INSTINCT』(本能)である。主人公の元大学教授はアンソニー・ホプキンスが演じている。
アフリカの奥地でゴリラと暮すうちに、彼らとの一体感を経験し、人間の不自由さとゴリラが持っている本当の自由に目覚めるというストーリーである。ヒトよりもゴリラの方がより「人間的」というわけである。人間社会への嫌悪とともに動物社会への礼賛といったところか。
『愛は霧のかなたに』(1988、米国)では、アフリカ奥地でマウンテンゴリラの保護に半生をささげた実在の研究者、ダイアン・フォッシーを シガニー・ウィーバーが演じている。 ドキュメンタリータッチの映画である。
あと、題名は忘れたが、実験に用いたサル(チンパンジーだったと思う)が集団脱走するというテレビで見たSF映画があった。危険な宇宙飛行には、人間の代わりにサルを訓練して送り込もうという設定である。
サルに宇宙カプセルの操縦などを教えるのであるが、サルが危険を感じて、実験が始まる寸前に脱走してしまうという筋書である。サルは脱走するために、飛行機を乗っ取り、それを操縦して飛び去ってしまうシーンがハイライトである。逃げるサルを思わず応援したくなるような映画である。
冷静に考えると、現在の研究結果からすると、サルが飛行機を操縦できるようになるとは思えないが、知能の高さを強調したことは正しい。
ヒトの言語能力に関して、米国の言語学者、ノーム・チョムスキーは「言語能力はヒトの生得的な能力であり、それは言語の利用を可能にする生理的器官を有しているからである」と主張している。音が聞こえるのは、耳と聴覚とそれを解釈する聴覚野という脳があるからだというのとほぼ同じである。
その言語器官があるために、どの言語にも共通の普遍的な文法を理解できるとしている。これを彼は普遍文法と呼んでいる。日本語も英語も表現や文字は異なるが、その底には共通の構造、すなわち普遍文法があると言っているのである。
普遍文法については、異論もあるようだが、チョムスキーの主張を突き詰めると、ヒトには言語器官を作る遺伝子があり、他の生物にはそれがないということになる。勿論、遺伝子は脳に関わる遺伝子や発音に関係する遺伝子など複数あり、正確には言語遺伝子セットということになるだろう。
現在、このようなヒトに特有の言語遺伝子を探す試みは最先端の分野の一つである。そして、すでにその候補らしきものも見つかり始めている。チンパンジーやボノボの遺伝子とヒトの遺伝子の違いはほんのわずかではあるが、そのわずかが大きな違いを生むのは不思議なことである。




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