三陸書房
今月号リレー・エッセイ2

(3) 思考と信号 その27

脳は黙って働く
佐川 峻
「男は黙ってサッポロビール」というキャッチフレーズは、マッチョな三船敏郎とよくマッチしていた。アサヒビールの「スーパードライ」も年配層狙いの辛口路線である。
しかし、このキャッチフレーズも、近頃はとんと聞かなくなった。「黙っておれについて来い」というのは、もはや死語というよりは、滑稽さを誘う時代になったようだ。「寡黙」という言葉も今の若い人はもはや知らないのではと思う。それだけ、自己表現とサービス精神が必要な時代になったということだろう。
軍事の覇者であるローマ帝国が「愛」を説くキリスト教によって徐々に変質していったように、文明は成熟するにつれ女性化してゆくとは、ある歴史家が言った言葉だが、ビールのコピーの変遷もその例の一つになるかもしれない。
「沈黙の臓器」とは肝臓のことである。その意味するところは、肝臓はとことんダメになるまで働き続けるということである。肝臓はちょっとやそこらではダメにならないし、悪くなっても痛いということもないが、その代わり、一旦ダメになったら、再び良くするのが難しいということを、この「沈黙」という言葉で表している。
肝臓は1から2キログラムくらいある、人の最大の臓器である。肝臓は、体内で不要になった廃棄物を分解して腎臓を通じて体外に放出する働きをする。アルコールを飲むと、それを分解するのも肝臓である。薬を飲む場合でも、その薬は最終的には肝臓で分解され、体外に廃棄される。そのため、アルコールを飲む場合でも、薬を飲む場合でも、肝臓の働きが悪くなると体調が悪くなる。沈黙はしていても、非常に重要な臓器であることには変わりない。
脳も重さは1.3キログラムくらいあり、重さでは肝臓に匹敵する大きな臓器である。そして、この脳も「沈黙の臓器」である。
脳が「沈黙」とは少し奇異な感じを持つ人もいるかもしれない。「私は、脳が考えていること、すなわちしていることがわかるから、脳が沈黙とは変だ。脳は私にとって雄弁である」と主張するかもしれない。しかし、それは完全な錯覚である。
眼でものを見るということを、例にとってみよう。眼の構造はカメラと非常に似ている。水晶体がレンズであり、網膜がフィルムに相当する。網膜には視神経が来ており、網膜に映った画像の情報は視神経を通じて脳に送り込まれる。この意味で、人の場合は、画像は網膜に映っているが、それを意識しているのは脳である。
さて、ここで、単純な実験をしよう。今、ある人が動きながら、例えば歩きながら、外を見ている。網膜には動く外界の像が映っているはずである。しかし、眼に映る外界の画像は全くゆれ動いてはいない。頭を上下、左右に動かしながら外界を見る実験をしてみればこのことはすぐわかるはずである。
もし、お好みとあれば頭を90度横に向けてもよい。このとき、外界は横にひっくりかえるだろうか。そうではなく、全く「固定」しているように見えるはずである。ひっくりかえるのは頭であり、外界とは思わないだろう。すなわち、頭や体はどのようにゆれ動こうと、ときには逆立ちになっても、外界は「固定」されて安定に映るのである。
これは、お察しのとおり、脳が網膜に映っているゆれ動き、傾く画像を認識するときは、ゆれ動く画像情報を高速度で操作して安定に認識しているからである。というより、安定に認識できるように働いているからである。頭が動くたびに画像がゆれては、船酔いのようなことになるだろう。脳は黙ってすごい働きをしているのである。
ある本の受け売りであるが、第二の実験である。面白くもなんともないが、自分で自分の腕をくすぐってみよう。当たり前のことながら、ほとんどくすぐったくないのではないだろうか。ところが、誰か他の人にくすぐられると、くすぐったく感じるはずである。この感じ方の差はどこから生じるのだろうか。
答えは、脳である。自分でくすぐる場合は、脳はそれを予測しているので、くすぐったくないのである。しかし、他の人にくすぐられる場合は、それを予測できないので、くすぐったく感じる。脳は不意打ちに弱いのである。
「自分でくすぐる」とは正確に言えば、脳はどこをどのようにくすぐるかを完璧に知っていることであり、「くすぐる」という行為だけではなく、予測という非常に高度な働きをしているのである。このためにくすぐったくなくなる。脳は黙って予測しているのである。
受け売りついでに、第三の実験をしよう。とは言っても、これは実験でなく、日ごろの経験である。少し込んでいる電車の中にいる自分を思い出してほしい。日ごろ電車で通勤している人は容易だろう。
混んだ電車で立っている場合、後ろの人に背中を押されることがある。このとき、そのことにすぐ気がつき、少し、不機嫌になるはずである。不機嫌というより、不愉快と言うべきかもしれない。
この不愉快さはどこから来るのだろうか。背中を押されたからであることは間違いないが、それだけでは正確ではない。その証拠に、椅子に座っている場合を想像してみよう。椅子の背もたれは、電車で押された場合と同じくらい背中を押しているはずである。しかし、それは別に不愉快ではない。「うーん」と言って背もたれに強く押し付け、伸びをする場合もあるほどである。
結論は明白である。電車で背中を押されて不愉快なのは、押されることよりもそれが、不意打ちであるということである。つまり、それを予測できなかった脳が怒っているのである。椅子の場合は、勿論、脳はすべてお見通しだから、その場合は、気持ちよくなる場合もあるくらいである。
脳は黙って働いているのである。しかも、それは人の考えること、行動することすべてにわたってである。




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