三陸書房
連載 ふるさとの海の物語 第18回
(2)琳聖太子 その1
私の家はログハウスである。退職後をここで暮らそうと思い、古い家を建て替えたのである。二階があり、海に面して広い窓がある。その部屋で寝起きし、朝に夕に海を眺めている。ログハウスでは、二階のことをロフトと呼ぶ。屋根裏部屋の意である。
ロフトの窓の正面に見えるのは三田尻港(防府市)である。前回案内した地図には汽船のマークだけしかないが、海図では、向島との間の細い水路とその両端の狭い入江がその港内となっている。ここを出て、西へ向かえば関門海峡を経て朝鮮海峡や東シナ海、あるいは豊後水道を経て太平洋に到り、東へ向かえば京大坂から江戸に到る。港の向こうに、重畳たる山なみが遠く霞んで見えるが、その山々を縫うようにして、山口や萩へ通じる街道が走っていた。大内氏や毛利藩は、この街道を通って三田尻港へ出て、京大坂あるいは朝鮮中国へ往来した。つまり、この港は周防の国の表玄関であり、交通の要衝として栄えた長い歴史を持っている。ふるさとの海の物語も、この三田尻港にまつわるものが多い。
さて、そのロフトの窓の左手に見える岬の端から船が現れた。このあたりでは見かけぬ大型の帆船である。船はつぎつぎと現れて右手に進み、多々良ヶ浜(三田尻港)の入口へ消えて行った。611年(推古天皇の19年)のことで、百済国第26代聖明王の第三王子琳聖太子の渡来である。ここに周防の国の歴史物語は始まる。
百済国は、当時日本にとってきわめて近い存在であり、多くの大陸文化を日本に伝えるとともに、帰化人も多かったことでよく知られている。また、聖明王は538年に日本に仏教を伝えたことで有名である。
最近、『続群書類従』系図部所収の「大内系図」では、琳聖太子は26代聖明王(在位523-54)の子ではなくて、30代武王(在位600-41)の第三子とされているとある人から教えられた。聖明王とすると、渡来時の琳聖太子は57歳以上ということになり、疑問を感じていた。武王であれば、王子というにふさわしい年齢になるのである。私が目にした書物はすべて聖明王となっていたので、大変な驚きである。
百済国の始まりはBC18年、始祖は温祚王と伝えられ、聖明王が26代というのはここから数えてである。しかし、古い話は建国神話であろうとされており、4世紀半ば13代近肖古王の頃に国家として確立した、とするのが普通の見方のようである。それ以降、時代によって多少の変遷はあれ、ほぼ現在の韓国の西半分に位置した。そして660年、新羅の協力を得た唐に敗れ、都の扶餘が陥落し滅亡する。その後、残存勢力が再興を図って日本に救援を求めてくる。日本は直ちにこれに応じ、水軍2万7千を派遣して戦いを挑む。663年、白村江の戦である。しかし、志空しく唐の水軍に敗れ、百済は完全に歴史から姿を消す。
この百済国の説明であるが、諸説に照らして無難なものにするのに苦心した。正確を期するために、本やインターネットで百済国の歴史を調べてみたら、まことに諸説紛々で驚かされた。こんなにさまざまな説があっては、確固たる歴史というものは世の中に実在せず、あるのは歴史観あるいは歴史認識だけなのではないかという気がしてくる。であるとすれば、歴史教科書問題も適当に対応しておくわけにはいかないと思う。
(2)琳聖太子 その2
本題に戻ろう。
幾日か後、その船団は再び多々良ヶ浜から現れ、窓の左端から右端へ、海岸沿いに東へ進み島陰へ消えて行った。多々良ヶ浜で渡航の疲れを癒し、旅装を整え直して、聖徳太子に謁見するため摂津に向かう琳聖太子の一行である。琳聖太子は、聖徳太子の仏教を理念とした国造りを支援するために来朝したとも伝えられている。
太子は聖徳太子に手厚くもてなされ、周防国大内の地を賜って日本に帰化し、そこに居を定めた。現在の山口市のあたりで、今も大内の付く地名が多い。
琳聖太子の史跡とされているものも幾つか残っている。防府市右田にある大日古墳(国指定史跡)は、その被葬者が琳聖太子であると伝えられ、山口市大内御堀の乗福寺の奥にある古色蒼然たる墓と供養塔も、琳聖太子のものといわれている。また、山口市大内氷上にある天台宗の古刹、氷上山興隆寺は琳聖太子の創建と伝えられている。
しかるに、実在を証明する史料がないとして、琳聖太子は伝説上の人物とされている。
裁判では、疑わしきは罰せず、というのが原則である。それなのに歴史では、疑わしきは真実ではない、ということを原則にしているかのようである。あまりにも狭量に過ぎはしまいか。そんなことではロマンは滅びてしまう。幾世紀を経て、人々が言や文で伝えてきたという事実をどう評価するのだろう。トロイの神話は、シュリーマンが奇跡的な発掘に成功しようとしまいと、シュリーマンを魅了したその素晴らしさは変わらない。物的証拠ばかりを偏重するから、旧石器捏造のゴッドハンドなどというものが現れたりする。
さて、この琳聖太子を始祖とするのが、室町期に西国の雄として名を馳せた守護大名、大内氏の古伝である。最近ようやく毛利氏の呪縛を解かれた県内では、山口市を中心に大内氏の歴史や文化が再認識され研究が盛んである。そのなかでこの話の真贋も甲論乙駁で喧しいが、事実にあらずという方が優勢のようである。琳聖太子の実在自体が認められていないのだから、当然と言えば当然である。しかし、この古伝が大内氏代々の思考行動に影響を与え、ひいては日本の歴史にも関わってくるのは事実である。
琳聖太子にまつわる伝承は色々あるが、有名な話を一つ紹介しよう。
大津島の属する周南市の東隣に下松市がある。下松市は、今年4月の市町村合併で徳山市とともに周南市となるはずであったが、土壇場でキャンセルして物議を醸した。
琳聖太子渡来の2年前、青柳浦と呼ばれていたこの地の松の大木に星が降り、七日七夜にわたって光り輝いたという。やがて渡来する百済の王子を守護するために、北辰星(北極星)が降臨したのだというお告げがあり、人々はこれを北辰尊星妙見大菩薩と呼んで社を建てて祀り、浦の名を下松と改めたという。大内氏は、氷上山興隆寺にこの社(妙見社)を勧請し、氏神とした。また、管領代として京で権勢を振るった大内義興の旗印は、北辰星を象った白地に金色の丸であった。
今も、下松駅近くに松の古木があって「下松発祥の地、七星降臨鼎之松」と記された石碑が立ち、下松市のキャッチフレーズは「星降るまち」であり、小高い丘の上の下松公園には「星の塔」が建てられ、そのてっぺんの星が日に輝いて市内のあちこちから見える。合併問題では、由緒ある市名が無くなることを惜しむ声も多かったそうである。
1400年を経て、伝承は今なお人々の心のなかで息づいているのである。




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