三陸書房
今月号リレー・エッセイ2
 
インド細密画の小径(7)

ムガル帝国の細密画 その1 インドとイスラーム
辻村 節子 


「囲い込み猟をするアクバル帝」
 アクバル・ナーマ写本挿絵 ムガル派 1590年頃
 ミスキン作 35×22cm ロンドンV&A美術館蔵

画面中央、柵の中で、頭に皇帝の象徴である羽飾りのついたターバンを巻いた皇帝アクバルは、やや質素な茶色の服をまとって白馬に跨り、左手に弓を持ち、右手で腰の箙(えびら)から矢を抜きつつ、獲物を追って疾駆している。地面にはすでに射られ、屠(ほふ)られたいろいろの種類の鹿や山羊、兎などが倒れ、散乱している。
傍らでは、はやくも内臓を取り出し、皮を剥ぎ、肉をさばく男たちが仕事に熱中している。アクバルの下方の2頭立ての牛車は、動物を追い立てるためのものか、あるいは倒された獲物を収集するためのものか。その手前の馬上で弓を射る白服の貴人は、王子の一人とされる。首輪を付けられた3頭のチーターは、狩猟用に飼い馴らされ訓練されているもので、しなやかな体躯に美しい斑点模様が目立つ。左上に見える赤い天幕は、同行した後宮の女性たちのためにしつらえられたもの。囲みの柵の上下には、この猟場をしつらえた狩猟担当の役人や、棒を手にした勢子たちが待機している。
あらかじめ生け捕りにした大量の動物を囲みに入れ、皇帝や貴族が狩り立てを楽しむこの残酷な娯楽は、ティムール朝から伝わるカマルガーという狩猟法である。
この細密画はムガル朝第3代皇帝アクバル(在位1556−1605)の年代記『アクバル・ナーマ』の写本の挿絵の1枚で、1576年アクバル36歳の折、ラーホール近くで行われた行事の記録画である。内容の詳細は後に譲るとして、ムガル派細密画の代表的な例としてここに掲げた。実際はかなりの広さのある猟場の囲みを俯瞰的な構図で圧縮して、それぞれ50を超える人と動物のさまざまなポーズを描き分け、報道写真のように一瞬を捕らえた画面である。深みのある自然な色彩、ダイナミックな動きの描写、写実的な人物と動物の描き方──16世紀後半にアクバル帝の宮廷工房で描かれた代表的ムガル細密画の一枚である。

(今回から、ムガル派のインド細密画について、この王朝の歴代皇帝たちとの関連から眺めていきたいと思います。この回はイントロで、やや堅い話も含まれます。)
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インド細密画に関する内外の書物では、インド細密画を大別してムガル派とラージプート派とすることが多い。しかし私としては、これをムスリム(イスラーム教徒)系と原インド系としたい。
ムスリム系の代表とされるのは、もちろん16世紀中葉より100年以上にわたって、イスラーム王朝ムガルの宮廷画院で、皇帝や貴族のパトロネージの下に贅を尽して制作された、ムガル派細密画である。これには他にも、インドにおけるムガル朝以前のイスラーム政権であるデリー・スルターン朝やそこから派生した西のグジャラート、南のデカンやマールワー、東のベンガルなどの各地のムスリム統治者のもとで生れた「プレ・ムガル絵画」と呼ばれるものや、18世紀になって弱体化したムガル王朝から独立した、ラクナウやムルシダバードなどの地方ムスリム王国で制作された「地方ムガル絵画、バザールムガル絵画」などと呼ばれるイスラーム系の細密画も含まれる。
原インド系の細密画は、インド原住の民が古代から育んできた洞窟や寺院、宮殿、家屋などの壁画、多様な工芸品の絵付けやデザイン、仏教やジャイナ教の宗教経典の挿絵,民画などの豊かな美術伝統に連なる細密画であるが、16世紀以降に主としてヒンドゥー教徒の王族、武族階級であるラージプートの各地の藩王国で制作されたので、ラージプート派細密画とも呼ばれている。
両者の細密画は、伝統、宗教、民族、財政などの差異から、制作の意図、テーマ、表現法、画材、画法、パトロネージの規模などで、それぞれ特徴づけられるが、統治者と被統治者の関係が、時代、地域によりさまざまな状況を呈すると、絵画事情にも各種の交流が生じて、互いに影響しあい、融合された様式も出現する。
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(以下、ムガル帝国の成立以前のイスラーム教のインド亜大陸進出の状況をざっと眺めます。)
預言者ムハンマドがメッカで最初に神の啓示を受け、アラブにイスラームの教えを広め始めたのは610年頃とされるが、712年にはイスラーム最初の支配王朝、ウマイヤ朝の将軍ビン・カーシムが海路インドに進軍し、シンドからインダス川をさかのぼり、ムルターンを攻略した。イスラーム教は成立100年足らずでインド亜大陸まで進出したのである。しかしこの時には、アラブとインドの他の地域との間に文化的交流が起るには至らなかった。
続くアッバース朝は、シンドとパンジャーブ南部に宗主権を持つようになり、総督を置いたが、インドの他の地域には進出も信仰の普及もしなかった。
9世紀には南インドのケーララに、アラビア船の寄港地ができ、商人が定住し、イスラーム社会が形成され、インドの商人や哲学者、医師、職人なども、海路バグダードや他の西アジアのムスリム都市を訪れている。しかし、こうした初期の海上ルートからのインドへのイスラーム教の浸透は、微々たるものであった(ちなみに当時のインドの人口は1億人以下だったといわれる)。
この頃のインドは、7世紀にネパール、カシミールを含むほぼ北インド全域を統一したハルシャ王(戒日王 在位506−647)が建てたヴァルダナ朝が分裂して、約300年にわたって地方ごとに多くの小王朝が興亡し、さまざまな部族、言語、宗教が混在、混乱を続けていたが、イスラームの到来に先立つ数世紀には、主としてヒンドゥー教徒のラージプート族が各地に王国を建てて支配していた。
インド亜大陸とイスラーム教の本格的な接触は、10世紀に始まる中央アジアからのトルコ系民族の侵入である。まず、アッバース朝から独立した中央アジアのペルシア系ムスリム王朝サーマーン朝(847−999)から逃亡してきた軍人奴隷が、アフガニスターンに打ち建てたガズナ朝(977−1186)は、イスラーム化したトルコ系部族の王国であるが、マフムードの代(998−1030)には、サーマーン朝に代って、中央アジアの部族の侵入者からイスラームの地を守る役割を果すまでになった。
マフムードは熱狂的なムスリムで、異教徒征伐を実行した。1000年代の末にインド遠征を開始し、1025年までに述べ17回ものインド侵入を繰り返し、ムルターン、パンジャーブ、カナウジ、グワーリオル、グジャラートなどを手当たり次第に攻略、ヒンドゥー寺院を破壊し、殺戮を重ね、莫大な戦利品を持ち帰った。
これにより、北インドの諸王国は、徹底的な打撃を受け、その後の侵略者に抵抗できなくなったといわれる。ガズナ朝の対インド大勝利はイスラーム諸国の大評判となり、マフムードの名は上がった。この時北インドのいくつかの都市に、ムスリム商人の居住区ができ、インドと中央アジア、西アジア諸国との交易が始まり、続いてムスリム諸国からイスラーム教神秘主義者(スーフィー)がやって来て、布教が開始された。こうしてイスラーム圏とインドとの交流が始まった。ラーホールがアラビア語やペルシア語文化の中心地となった。マフムードは残忍な征服者であったが、学芸を好み、ペルシア文化に傾倒した一面もあった。
1151年、アフガニスターン西部、ゴールのトルコ系部族がガズナ朝を滅ぼしたが、彼らもまた1192年には、カイバル峠を越えてインドに流れ込んできた。ゴール朝のムハンマドは、ヒンドゥー同盟軍を打ち破り、デリーを占拠し、北インド全域を支配下に置いた。これ以後デリーは、インドにおけるイスラーム勢力の拠点となる。
1206年、ムハンマドがシーア派の狂信者により暗殺されると、ゴール朝のデリー太守(統治官)であったアイバクが、独立してスルターン(イスラーム教スンニ派の君主、政治権力者の称号)を名乗った。インドにおける最初のイスラーム支配王朝、デリー・スルターン朝(1206−1526)の開始である。彼はトルコ系の軍人奴隷出身だったので、この王朝を奴隷王朝という。この同じ年に、チンギス・ハーンが即位し、モンゴル帝国が成立している。
遊牧民出身のトルコ軍の、機動力のある騎馬隊による弓の攻撃に、象を中心としたヒンドゥーの古典的軍隊は防戦に苦慮した。また、同盟を結んだヒンドゥー諸王は、真の統一戦線を組むことができず抵抗力が弱かった。トルコ系ムスリムは、略奪、占領、支配を重ね、インド各地に支配域を拡大していった。
デリー・スルターン朝は、内部にめまぐるしい権力争いが生じて、力が弱ると他部族が新王朝を建てては興亡を繰り返すが、5王朝320年間続いた。奴隷王朝(1206−1290)、ハルジー朝(1290−1320)、トゥグルク朝(1320−1413)、サイイド朝(1414−1451)、ローディー朝(1451−1526 これのみアフガン系)である。
君主権の強さや支配域は時代により差はあるが、イスラーム化は、各王朝の進出先の、軍営地を中心にシンド、パンジャーブからベンガルの一部に始まって、13世紀の終りからはグジャラートやデカン、マールワーなど南インドにも及んだ。
しかしながらデリー・スルターン朝は、領土を奪われたラージプート支配者の反撃や、ホラズム、モンゴル、ティムールなど中央アジアからの外敵の侵入、内部の対立、征服した各地の統治官の独立などの問題に常に直面していた。
1220年、チンギス・ハーン率いるモンゴル軍が、ホラズム帝国軍を打ち破って、中央アジアからイラン、イラクの繁栄した都市に侵入し、略奪と殺戮を重ねた。これはデリー・スルターン朝に大きい影響を与えた。唯一残ったムスリム国家として、重大な役割を持つことになったのである。破壊された諸都市から多くの地方君主、貴族、学者、宗教者、芸術家などがデリーに集まった。イスラームがこれらの絆であった。その一方、デリーにおけるトルコ人支配者は、モンゴルにより故地から切り離されて援軍がままならず、インド国内の状況への対応に苦慮していた。
翌1221年、モンゴルは早くもインドに現れ、脅威を与えた。チンギス・ハーンの軍に追われたホラズムの皇子がインダス川を越えてインド側に逃げ込んだ。彼らを追撃して、チンギス自身は川を越えなかったが、配下の軍はラーホール近くまでやって来た。インダスはもはやインドの西の境界ではなくなり、これ以後モンゴルはチンギスの子、孫からその孫の代に至るまでインド攻撃を繰り返し、デリー・スルターン朝は防戦に悩まされた。
1299年にはチャガタイ・モンゴルの20万の軍がデリー近郊まで到達したが、ハルジー朝はかろうじてこれを撃退した。その後1398年に、ティムールが騎兵の大群を率いてインダスを渡り、デリー郊外でトゥグルク朝の大軍を打破し、市内に乱入、3日間にわたって略奪と殺戮を重ね、財宝とともに多数のインド人技術者、工芸家も引き連れてサマルカンドに帰還した。
デリーは破壊し尽され、北インドは無政府状態になり、トゥグルク朝は名目だけのものとなった。ティムールによってムルターン、パンジャーブの支配を任されていたヒズル・ハーンが、1413年スルターンの死後デリーを占領し、サイイド朝を建てるが、混乱のあと、ローディー朝に代る。アフガン系のローディー朝は、3代75年間続き、何とか北インドを平定し、行政の基礎を整えた。
そして1526年、ティムールの後裔バーブルが、カーブルから5度目のインド攻撃で、部族闘争で弱体化していたローディー朝軍を破ってデリーに入り、ムガル朝を開始するのである。
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インドを征服したイスラーム勢力は、必ずしも野蛮な征服者ではない。イスラーム教とともに、中央アジアやペルシアから文学や建築その他の芸術、文化の伝統を携えての統治は、インドにとっては、新鮮で魅力的な出会いでもあったと思われる。また、統治された側のインドも、未開地ではなく古来豊かな文明を生み、種々の宗教、思想を育み、高度な文化を展開した土地である。統治の進行とともに、在来の文化に対する評価が生れたであろう。デリー・スルターン朝統治時代の文化芸術には、征服者と被征服者の異文化の接触から生れた摩擦、融合、発展の過程を見ることになる。
まずは、宗教の問題がある。古代の仏教美術、中世のヒンドゥー教美術を育んできたインドに、全く異質のイスラーム教の政権が誕生し、支配が始まる。一神教で偶像崇拝を禁ずるイスラームと、芸術性豊かな感覚的な偶像を制作し、礼拝するヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教などは相容れず、インド各地の寺院の略奪の際には、イスラーム教義遵守の名目で偶像の破壊が実行された。また、トゥグルク朝のフィローズ・シャー(在位1351−88)のように、熱烈なイスラーム信仰のあまり、あらゆる建築装飾、壁画、工芸品などに人物、動物図を用いることを禁ずる布告を発し、ヒンドゥー教やジャイナ教の挿絵入り宗教写本の破棄を命じたスルターンもいた。
一方デリー・スルターン朝では、イスラームの政治理念による支配を標榜していたが、イスラーム教の布教や強制改宗はせず、異教徒はジズヤ(人頭税)を支払うことにより、信仰の自由、生命財産の安全が約束された。スルターン朝の政権に関わるヒンドゥーのなかには出世のために改宗する場合もあったし、北インドにイスラーム政権が成立したことにより、イスラーム諸国よりウラマー(学識者)やスーフィー(聖者)などの宗教関係者がやって来て、デリーを中心に活動したので、イスラーム教は徐々にインドに浸透していった。
また、ペルシア語は、10世紀には中央アジアの文学と行政上の言語となっていたが、デリー・スルターン朝でも最初から公式言語として採用された。ペルシア語を学んだインド人が、ムスリム政権の宮廷に職を得たり、ペルシア語を通じてイランや中央アジアの文化と密接な繋がりを持つようになり、このなかから優れた詩人や文学者も生れ、サンスクリットやアラビア語の書物のペルシア語訳も盛んとなる。
デリー・スルターン朝成立後、最初に起った芸術活動は、建築であった。偶像を持たないムスリムの宗教芸術は寺院(モスク)や記念碑、墓廟の建築に集中し、13世紀以後デリー周辺に多くの建築物が造られた。外来の(ムスリムの)建築家の数は限られていたので、これらの建造には多くのインドの工人が携わり、建材にはしばしば破壊されたヒンドゥー教やジャイナ教の寺院の石材が転用されたので、ここでイスラーム建築様式とインド在来の美術伝統が融和した、独特の建築様式が生み出された。インド・イスラーム様式といわれるこのような建築は、14−15世紀には西のグジャラート、南のデカン、東のベンガルなどのムスリム支配地にも、それぞれの地方の伝統建築の影響を受けて展開した。
宗教施設だけでなく、城砦や宮殿、都城など、戦闘、政治、生活の場の建築にも、同様に混合様式が見られる。これらの建築物には、インド人画家による壁画も描かれた。
次いで、デリー・スルターン朝には、カールハーナという工芸センターが設けられた。儀礼用の品々から家具調度や宝飾品、金銀細工、染織品、衣服、絨毯、皮製品、ガラス製品、タイルなどありとあらゆる工芸品が、主として高い技術を持ったインドの職人により製作された。ここでも独特の混合様式のデザインが生れ、ここで生産されたものは、外交上の贈物にされたり、商人により輸出されたりして国外でも評判となった(1398年の、あのティムールのデリー略奪の際、殺戮を重ねたが、インド人の技術者や工人は殺さずに、サマルカンドに連行したことが思い起される)。
また、カールハーナでは、紙の生産も行われ、写本やカリグラフ(書道)の制作もされたという。細密画は、ティムールの進入による破壊からデリーが再起し始めて、文化的再生が生ずるようになったデリー・スルターン朝の最後の王朝、ローディー朝2代目のスルターン・シカンダール(1488−1517)の代まで出現していない。シカンダールは、学問好きで、この再興を支援した。彼は挿絵入り写本のパトロンにはならなかったが、愛書家や商人階級、その他ペルシア古典やヒンドゥー叙事詩、インドのロマンスなどの挿絵入り写本を持ちたい人々の邪魔はしなかった。あちこちで制作された初期の挿絵入り写本や、その断片の細密画が残されている。
1567年にアクバル帝の宮廷アトリエが機能し始め、「ムガル派絵画」が生み出されるが、それ以前のこれらの細密画を、「プレ・ムガル派絵画」と呼ぶ。これについては、次回に。
(インド細密画愛好家)




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