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《新版 万葉秀歌365》10月

10月1日(
) 東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ☆── 柿本人麻呂〔巻一・48〕
         ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ  かきのもとのひとまろ

   2日(
) 吾が背子を大和へ遣るとさ夜更けて 暁露に吾が立ち濡れし☆── 大伯皇女〔巻二・105〕
         わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに わがたちぬれし  おおくのひめみこ

   3日(
) 二人行けど行き過ぎがたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ☆── 大伯皇女〔巻二・106〕
         ふたりゆけど ゆきすぎがたき あきやまを いかにかきみが ひとりこゆらむ  おおくのひめみこ

   4日(
) 神奈備の浅篠原のうるはしみ 吾が思ふ君が声の著けく☆── 作者未詳〔巻十一・2774〕
         かむなびの あさじのはらの うるはしみ あがもふきみが こゑのしるけく  さくしゃみしょう

   5日(
) 目には見て手には取らえぬ月の内の 桂のごとき妹をいかにせむ☆── 湯原王〔巻四・632〕*
         めにはみて てにはとらえぬ つきのうちの かつらのごとき いもをいかにせむ  ゆはらのおおきみ

   6日(
) いかばかり思ひけめかも敷栲の 枕片さる夢に見え来し☆── 娘子〔巻四・633〕
         いかばかり おもひけめかも しきたへの まくらかたさる いめにみえこし  おとめ

   7日(
) み空行く月読をとこ夕去らず 目には見れども寄るよしもなし☆── 作者未詳〔巻七・1372〕
         みそらゆく つくよみをとこ ゆふさらず めにはみれども よるよしもなし  さくしゃみしょう

   8日(
) 難波津に御船下ろすゑ八十梶貫き 今は漕ぎぬと妹に告げこそ☆── 防人 若舎人部広足〔巻二十・4363〕
         なにはつに みふねおろすゑ やそかぬき いまはこぎぬと いもにつげこそ  さきもり わかとねりべのひろたり

   9日(
) いで何かここだ甚だ利心の 失するまで念ふ恋ゆゑにこそ☆── 作者未詳〔巻十一・2400〕
         いでなにか ここだはなはだ とごころの うするまでおもふ こひゆゑにこそ  さくしゃみしょう

  10日(
) 武庫の浦を榜ぎ廻る小舟粟島を そがひに見つつともしき小舟☆── 山部赤人〔巻三・358〕
         むこのうらを こぎみるをぶね あはしまを そがひにみつつ ともしきをぶね  やまべのあかひと

  11日(
) 百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ☆── 大津皇子〔巻三・416〕
         ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ  おおつのみこ

  12日(
) うつそみの人にある我れや明日よりは 二上山を弟背と我れ見む☆── 大伯皇女〔巻二・165〕
         うつそみの ひとにあるあれや あすよりは ふたかみやまを いろせとあれみむ  おおくのひめみこ

  13日(
) 北山にたなびく雲の青雲の 星離り行き月を離りて☆── 持統天皇〔巻二・161〕
         きたやまに たなびくくもの あをくもの ほしさかりゆき つきをさかりて  じとうてんのう

  14日(
) 秋風の寒く吹くなへわがやどの 浅茅がもとにこほろぎ鳴くも☆── 作者未詳〔巻十・2158〕
         あきかぜの さむくふくなへ わがやどの あさぢがもとに こほろぎなくも  さくしゃみしょう

  15日(
) 苗代の子水葱が花を衣に摺り 馴るるまにまに何故か愛しけ☆── 東歌〔巻十四・3576〕
         なはしろの こなぎがはなを きぬにすり なるるまにまに あぜかかなしけ  あずまうた

  16日(
) 去年見てし秋の月夜は照らせども 相見し妹はいや年離る── 柿本人麻呂〔巻二・211〕
         こぞみてし あきのつくよは てらせども あひみしいもは いやたおしさかる  かきのもとのひとまろ

  17日(
) わが命の全けむ限り忘れめや いや日に異には思ひ増すとも☆── 笠女郎〔巻四・595〕
         わがいのちの またけむかぎり わすれめや いやひにけには おもひますとも  かさのいらつめ

  18日(
) 秋の夜の霧立ち渡りおほほしく 夢にそ見つる妹が姿を☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十・2241〕
         あきのよの きりたちわたり おほほしく いめにそみつる いもがすがたを  かきのもとのひとまろのかしゅう

  19日(
) 帰り来る人来れりと言ひしかば ほとほと死にき君かと思ひて☆── 狭野茅上娘子〔巻十五・3772〕
         かへりける ひときたれりと いひしかば ほとほとしにき きみかとおもひて  さののちがみのおとめ

  20日(
) わが背子はいづく行くらむ奥つ藻の 名張の山を今日か越ゆらむ☆── 当麻麻呂の妻〔巻一・43〕
         わがせこは いづくゆくらむ おきつもの なばりのやまを けふかこゆらむ  たぎまのまろのつま

  21日(
) 旅にしてもの恋しきに山下の 赤のそほ船沖に榜ぐ見ゆ☆── 高市黒人 〔巻三・270〕
         たびにして ものこひしきに やましたの あけのそほぶね おきにこぐみゆ  たけちのくろひと

  22日(
) 大君の命恐み磯に触り 海原渡る父母を置きて── 防人 丈部人麻呂〔巻二十・4328〕
         おほきみの みことかしこみ いそにふり うのはらわたる ちちははをおきて  さきもり はせつかべのひとまろ

  23日(
) 引馬野ににほふ榛原入り乱れ 衣にほはせ旅のしるしに☆── 長意吉麻呂〔巻一・57〕
         ひくまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびのしるしに  ながのおきまろ

  24日(
) 玉津島磯の浦廻の砂にも にほひて行かな妹も触れけむ☆── 柿本人麻呂歌集〔巻九・1799〕
         たまつしま いそのうらみの まなごにも にほひてゆかな いももふれけむ  ひとまろのかしゅう

  25日(水) 秋萩の枝もとををに露霜置き 寒くも時はなりにけるかも☆── 作者未詳〔巻十・2170〕
         あきはぎの えだもとををに つゆしもおき さむくもときは なりにけるかも  さくしゃみしょう

  26日(
) 神さぶといなにはあらずはたやはた かくして後にさぶしけむかも☆── 紀女郎〔巻四・762〕*
         かむさぶと いなにはあらず はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも  きのいらつめ

  27日(
) 百年に老舌出でてよよむとも 吾はいとはじ恋は増すとも☆── 大伴家持〔巻四・764〕
         ももとせに おいしたいでて よよむとも あれはいとはじ こひはますとも  おおとものやかもち

  28日(
) わが屋戸の葛葉日に異に色づきぬ 来まさぬ君は何心そも☆── 作者未詳〔巻十・2295〕
         わがやどの くずはひにけに いろづきぬ きまさぬきみは なにごころそも  さくしゃみしょう

  29日(
) 天の原富士の柴山木の暗の 時移りなば逢はずかもあらむ☆── 東歌〔巻十四・3355〕
         あまのはら ふじのしばやま このくれの ときゆつりなば あはずかもあらむ  あずまうた

  30日(
) 秋の田の穂向きの寄れる片寄りに 君に寄りなな言痛くありとも☆── 但馬皇女〔巻二・114〕
         あきのたの ほむきのよれる かたよりに きみによりなな こちたくありとも  たじまのひめみこ

  31日(
) もののふの八十宇治川の網代木に いさよふ波の行くへ知らずも☆── 柿本人麻呂〔巻三・264〕
         もののふの やそうぢかはの あじろきに いさよふなみの ゆくへしらずも  かきのもとのひとまろ






〈今日の秀歌メモ〉

10月1日
新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
「人麻呂の名歌として親しまれている。しかし、本当にこういう形の歌だったと
いう保証はない」。この訓みは「賀茂真淵〔『萬葉考』〕の案出したもの」で、
これが「定着」するまでは、「あづま野のけぶりの立てる所見てかへり見すれば
月傾きぬ」という訓みであった。「訓詁学の立場からは『未解読歌』に属する」
もので、「『かぎろひ』とは何か」をはじめ、多くの「留意しておくべき事項」
がある、という。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』には、
「〔橘〕守部此歌を評して、『一夜やどりたる曠野のあかつきがたのけしき、め
に見ゆるやうなり。此かぎろひは旭日の余光をいへるなり』(『萬葉集緊要』)
といつた」
とあり。


10月2日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
題詞「大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下りて、上り来る時
に、大伯皇女の作らす歌二首」の第一首。(第二首は明日掲載)
「〔この二つの歌は〕いくたび読みかえしても、悲しみのつきない歌である。寂
しいとも苦しいともいっていない。しかし、つつけば一天に広がるような悲痛が
全体に重く沈んでいて、読む者の心を刻む。秘めた事情を厚く背負う歌であるこ
とは、誰の目にも明らかである。
 天武天皇の皇子、大津皇子が「竊かに伊勢の神宮に下」ったのは、朱鳥元年(
686)九月二十四日夜半から二十六日朝までのことであったらしい(拙著『万葉
集の歌人と作品』上)。父天武が没して十五日目、忌中のことである。国家の守
護神である伊勢の神宮に勝手に参ることは当時禁じられていた。大津皇子はその
禁忌を犯してひそかに伊勢神宮に赴いた。事はそれだけで叛乱になる。折しも、
伊勢神宮を斎(いつ)き祭る斎王(さいおう)は、大津皇子の同母の姉大伯皇女
であった。とって二十六歳のこの斎王に事情を打ち明け、伊勢神宮を味方にいれ
るのが、大津伊勢下向の目的であったと思われる。伊勢神宮の加護を頂く者は正
統の者であるから、それだけで、叛乱は有利に展開されることになる。
 しかし、大伯皇女は、天武朝の名代として、天武三年(674)の十四歳の時か
ら伊勢神宮に仕えている。今、天武逝(ゆ)いたとはいえ、ただちに称制して天
皇の代行を務めることになった皇后(持統)および皇太子草壁皇子側に属する身
である。公的な斎王の地位に誠実であればあるほど大伯は同母の姉としての心情
を踏みにじらなければならない。弟に加担するために、ひとたび姉の愛に立てば、
公人として彼女もまた叛く人の数に入る。ここに深い苦悶が生ずる。
 二つの歌は、その苦悶のあげく、弟をむなしく大和に帰しやった直後の心情を
述べたものである。秋の詠であるから、第一首にいう『さ夜更けて暁露』に至る
時間はだいたい午前零時から四時頃と見られる。第一首は、
  わが弟を大和へ送り帰さなければならないと、
  夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、
  暁の露に私はしとどに濡れた。
の意。国家を代表して伊勢神宮を祭る高貴な女性が、さ夜更けてから暁方まで野
外に立ちつくして夜霧に濡れたというのは、尋常ではない。気配によって、姉は
弟が突然訪ねて来た意味を知り、弟は姉が私の情を押し殺して泣いていることを
知ったのであろう。伊勢の地の暗闇で相まみえるということが、二人にとって会
話そのものであったように思える。長い夜の中の、沈黙という会話によって、す
べてを交流し理解しあって二人は別れ去ったのではなかったか」。(明日につづ
く)


10月3日
昨日に引きつづき、伊藤博『萬葉集釈注 一』より、
「いずれにせよ、無為に弟を帰しやった姉は、憂悶に堪えきれず、大和へと去っ
た弟を思い起こすようにして、この二つの歌を詠んだ。第二首の『秋山』には冥
界を連想させるような暗い映像が伴う。
  二人で歩を運んでも寂しくて行き過ぎにくい
  暗い秋の山なのに、その山を、今頃君は
  どのようにしてただ一人越えていることだろうか。
という第二首は、せめては無事越えて行ってほしいことを願いつつも、その越え
果てた先に不吉な運命を読みとったような切ない歌である」。

なお、今月11日に大津皇子の臨死歌、翌12日に大伯皇女の歌を掲載します。


10月4日
神奈備──「《ナは連体助詞》神社のある所。神が天から降りて来る場所として
信仰された山や森。大和では飛鳥・龍田のものが有名で、後、固有名詞化した」
(岩波古語辞典)。
うるはしみ──「ミ語法+思フは、〜だと思う、の意」(新編日本古典文学全集
『萬葉集 3』)。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「一首の、『神奈備の浅小竹原(あさしぬはら)の』は下の『うるはしみ』に続
いて序詞となつた。併し現今も飛鳥の雷岳あたり、飛鳥川沿岸に小竹林があるが、
そのころも小竹林は繁つて立派であつたに相違ない。当時の人(この歌の作者は
女性の趣)はそれを観察してゐて、『うるはし』に続けたのは、詩的力量として
観察しても驚くべく鋭敏で、特に『浅小竹原』と云つたのもこまかい観察である。
もつとも、この語は古事記にも『阿佐士怒波良(あさじぬはら)』とある。併し
それよりも感心するのは、一首の中味である。『妾(わ)が思ふ君が〔原文「妾
思公之」〕声の著けく』といふ句である。自分の恋しくおもふ男、即ち夫の声が
人なかにあつてもはつきり聞こえてなつかしいといふので、何でもないやうだが
短歌のやうな短い抒情詩の中に、かう自由にこの気持を詠み込むといふことはむ
つかしい事なのに、萬葉では平然として成し遂げてゐる」〔「浅小竹原(あさし
ぬはら)」「阿佐士怒波良(あさじぬはら)」の「ぬ」は現在「の」と訓まれて
いる〕。


10月5日
伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
題詞「湯原王、娘子(をとめ)に贈る歌二首」の第二首、
「以下十二首、湯原王と娘子とのかなり長期にわたる恋の展開を追う形で並べら
れている。王は旅先の地にあり、都の妻を伴っている。しかし、王の娘子への思
いはやみがたく、娘子にとっては妻の存在が気にかかるという状況設定になって
いる。王の631の歌は、
  無愛想なんだな、あなたという人は。これほどに遠い家路なのに、
  その家路を空しく追い帰されることを思うと。
の意。娘子を訪ねて拒絶され、遠く家路をたどらねばならぬことを怨んでいる。
最初の妻どいは女がいったん拒む風習があり、それを踏まえているらしい。拒ま
れると男の心は燃えあがるのが普通。王の632の歌はその思いをうたう。
  目には見えても手には取れない月の内の
  桂の木のように、手を取って引き寄せることのできない
  あなた、ああどうしたらよかろう。
の意。前歌の「人」を憧れの対象として「妹」と呼び、目に見ただけで我がもの
となしえないもどかしさを訴えている。相手を月の内にあるという桂に譬えたと
ころが、憧憬の念を鮮明にしており、恋歌の名吟と評価されている。なお、この
歌は、『伊勢物語』第七十三段に、
  目には見て手にはとられぬ月のうちの
    桂のごとき君にぞありける
という形で載せられ、「そこにはありと聞けど、消息(せうそこ)をだにいふべ
くもあらぬ女のあたりを思ひける」歌としている」。(明日につづく)


10月6日
昨日に引きつづき、伊藤博『萬葉集釈注 二』より、
「娘子の633の歌は、王の632の歌を意識しながら、
  あなたはかつてあんな歌を下さったけれど、
  それほどに思って下さっていたのかしら。そういえば、
  あなたの枕が傍に寄っている夜離(よが)れの床の夢に、
  あなたのお姿が見えてきたっけ。
  少しは思っていて下さったんですね。
と、相手の夜離れを皮肉ったもの。
 前歌に答える形になっているけれども、その間に時の経過があり、娘子が男を
受け入れるという事の進展もあったらしい。こういう返歌は珍しい。この一連
は、本来、状況設定を了解している人たちのあいだで享受された創作歌であった
のかもしれない。女性が単に『娘子』とだけ記されている点も条件に合ってい
る」。

そこらくに──「じゅうぶんに。たくさんに。しっかりと」(例解古語辞典第二
版)。
この第一句(原文「幾許」)の訓みは他に、校本、鶴 久・森山隆 編『萬葉集』
(おうふう 刊)によれば、「ここだくも」、「ここだくに」、「いかばかり」が
ある。

敷栲の──「(「しきたへ」は、寝具であるところから)「枕」……などにかか
る枕詞」(例解古語辞典第二版)。
片さる──「片側に寄る」(同上)。


10月7日
新編日本古典文学全集『萬葉集 2』によれば、
題詞「月に寄する」、
「月読をとこ──月の異名。『月読』とも。ヲトコは好ましい若者。ここは手の
届かない存在の男性のたとえ。
夕去らず──朝・夕などの語に付いたサラズは、欠けることなく、の意〔訳は
「宵ごとに」〕。


10月8日
新編日本古典文学全集『萬葉集 4』によれば、
「み船下ろすゑ──ミ船は天皇の派遣する防人の乗る船なのでいう。オロスヱは
オロシスヱの約。オロスは用心深くゆっくりと下降させる意。スウは安定させる
意。陸上に引き上げてあった船を、ころの類を使って水面まで移動させることを
いうのであろう。
八十梶貫き──ヤソカは多くの梶。カはカヂ・カイと同源で、カコ(水手)・カ
トリ(楫取)など複合語の中にしか用いられていない。ここは助数詞としての用
法。
漕ぎぬ──漕ギイヌ(去)の約。
妹に告げこそ──コソは希求の終助詞。ただし仮想的願望で、修辞的虚構の一
種」。

リービ英雄『英語でよむ万葉集』によれば、
口語訳
 「難波津に御船をおろし、たくさんの梶を通して、
  そして今、海へ漕ぎだし出発した、
  と妻に告げてください。
英語訳
 ‘O tell my wife
  that we have lowered the imperial craft
  into its berth at Naniwa Harbor
  and, setting it with eighty oars,
  have this moment rowed out to sea.’

なお、リービ英雄氏は「防人の歌」を ‘Poems of the Frontier Guardsmen’ とし
ている。


10月9日
新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
「いで何か──イデは、『乞』と書くこともあるように、他人に何かを要求する
時に発する感動詞だが、自らについても、決意したり驚き呆れたりする時に用い
る。ここは後者。ナニカは理由を問う疑問副詞。
利心──鋭くしっかりした心。理性。トは、鋭い、聡明だ、の意の形容詞トシの
語幹」。

四句切れの歌。


10月10日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
そがひ──背後、ソ(背)+カヒ(方向)の意。
ともしき──心引かれるの意。

新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
「粟島を背にし、武庫の浦を過ぎて都の方へ行く小舟を羨んで詠んだ歌」。


10月11日
伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
大津皇子は、「異母兄草壁皇子(くさかべのみこ)と皇位の継承を争って破れ、
持統朝の朱鳥元年(686)十月」、刑死した。「父天武天皇が、その十二年(68
3)二月一日、二十一歳の大津にはじめて朝政を聴くことを命じ、皇后(のちの
持統)・皇太子(草壁)の、大陸方式を好む新しい路線に修正を加えようとした
ことが、両皇子の対立に輪をかけることになったらしい」、
「十月二日、莫逆(ばくげき)の友川島皇子(かわしまのみこ)の口を通して謀
叛が発覚し、翌三日、大津皇子は、住み馴れた磐余(桜井市)訳語田(おさだ)
の舎(いえ)の突堤で殺された。年二十四。妃山辺皇女(やまべのひめみこ 天
智天皇の娘。母は蘇我赤兄〈そがのあかえ〉の娘常陸娘〈ひたちのいらつめ〉)
は、髪を乱し素足のまま大津の屍に向かって奔(はし)り行き、殉死したとい
う」(『萬葉集釈注 一』105・106歌釈文中)、
「歌はその折の辞世である。
  百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余(いわれ)の
  池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、
  私は雲のかなたに去って行くのか。
という意。
 当時、『い』を語頭に持つ言葉の枕詞としては、百に足りない五十(い)の意
の『百足らず』(「百足らず筏(いかだ)」一・50など)や、草の芽をさえぎる
岩の意の『つのさはふ』(「つのさはふ磐余」423など)というのに決まってい
た。一方、『百伝ふ』という枕詞も古くからあったけれども、これは、『角鹿
(つぬが)』『鐸(ぬて)』『度会(わたらひ)』などに冠するのを習いとした
(かかり方未詳)。そうした中で、大津皇子は、『百伝ふ』の枕詞を、はじめて
『い』を語頭に持つ言葉(磐余)に用いたのである。大きな数に伝い行く意のこ
の枕詞によって、磐余の池の永遠性が提示された。そしてそれに応じて、下二句
の『今日のみ見てや雲隠りなむ』に託されるはかなさが浮き彫りにされた。『百
伝ふ』の一語、きわめて大切である。
 一方、第三句の『鳴く鴨』は生きているものの生命感を表わしている。その鳴
く声は今死に行く大津の心の慟哭を表象しているかもしれないが、そうであって
も、鴨は皇子の身に迫る危害とは無縁に、無心に鳴きしきっている。それは、生
き物の呼吸して躍動する強いあかしである。それと対比的に大津は今まさに生命
を閉ざされるわけで、これまた『百伝ふ』と力をたずさえながら、下二句のはか
なさを浮き立たせる。
 『今日のみ』の身を切る限定は、『百伝ふ磐余の池に鳴く鴨』によって極限の
状態に突きつめられるのである。『を』の助詞は、『百伝ふ磐余の池に鳴く鴨』
全体にかかわる。だから、これは単なる格助詞ではない。命躍る鴨に対する、今
を限りと逝く者の万感の思いがこもる。『鳴く鴨よ』という熱い注視がここには
あり、その注視ゆえに大津は続けてこの鴨を見るのは今日限りだということにな
る。
 死を凝視してかくも深く、生きてあることの実感を伝えてかくも切ない歌を、
ほかに知らない。結句に、大津の霊魂が鳥と化して雲のかなたに隠れる姿を読み
取るならば、なおさらである。
 『雲隠る』を人の死について用いる場合は、万葉では貴人の死を遠回しにいう
表現として用いるのが普通(二・205参照)。死に行く人自身がみずからに『雲
隠りなむ』というのは自然ではないのである。それで一首を後人仮託の歌とする
見方がある。これはおそらくあたっている。しかし、後人の仮託などとは決して
思いたくないような、これはどうしても皇子のじかの声であってほしいような魅
力がこの歌にはある。
 『懐風藻』には、大津の辞世の詩として、次の一首を伝える。『五言、臨終、
一絶』と題する。
  金烏臨西舎   金烏西舎に臨(て)らひ、
  鼓声催短命   鼓声短命を催す。
  泉路無賓主   泉路賓主無し、
  此夕離家向   此の夕家を離(さか)りて向かふ。
 『金烏』は太陽。太陽の中に烏がいるという中国の伝説による語。「鼓声」は
夕刻を告げる声。同時に刑死を告げる声でもある。詩の『金烏』は歌の『鳴く
鴨』に匹敵する。ぎらつく夕光こそは、大津がこの世の果てに見る、悲しい生の
あかしである。その輝きの中に我が短命を催促して鼓声がなり響く。かくて行く
黄泉路には主も賓もない。大津はたった一人、住みなれた家を離れて死出の旅路
に向かうのである。
 この詩にもすでに類似の中国詩のあることが明らかにされており、後人仮託の
作と見られている。けれども、歌ともども、大津皇子の悲運を切実に伝えること
に変わりはない。契沖『萬葉代匠記』(精撰本)には、「歌ト云ヒ、詩ト云ヒ、
声ヲ呑テ涙ヲ掩(おほ)フニ遑(いとま)ナシ」と、その感動のほどを述べてい
る」。


10月12日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
題詞「大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に
移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首」の第一首、
「持統元年(687)年二月、馬酔木(あしび)の花の咲く頃の歌と思われる。大
津皇子の屍を、おそらくその生前の宮磐余(いわれ)の宮に営まれた殯宮(あら
きのみや)から二上山頂の墓陵に移葬した時の詠であるらしい。罪人大津に殯宮
が許されたのは祟(たた)りを恐れたからであろう。二上山は大和と摂津との国
境の地、大和からは隈(くま)にあたる霊地で、人を葬るにふさわしい所であっ
たが、見はるかされるこの麗峰に葬ったのも同じ意図によろう。
 ……この歌の上二句はとくに注目すべき表現。この句における『我れ』は、
『人』に対する『我れ』を一人称的に押し出した単一な『我れ』ではない。『我
れ』を『にある』で指定していることが示すように、これは『我れ』がうつそみ、
つまり現実の世の人であることを三人称的な発想でとらえた、きわめて認識的な
『我れ』である。このように、生身の『我れ』を『うつそみ』の人と凝視した人
は、これまでに誰もいなかった。少なくとも言語表現としては日本人の最初の経
験である。大伯皇女の『うつそみの人にある我れ』のこの画期的な認識は、大津
皇子の死という異常な体験を通して内から燃えあがってきた極光ともいうべきも
ので、それだけ底が深い。『我れや』の『や』は一般に疑問の係助詞と考えられ
ているが、そうではなく詠嘆の助詞と理解すべきであろう。そうであれば、『見
む』の『む』は意志ということになる。詠嘆で意志だから、結句に再び『我れ』
が登場することになる。その点でも、一首の『我れ』には重みがある。
 この深さと重みは強い意欲を発散させる。『我れ』は現世の人なのであるから、
まさにこの世に生きつづける者として、『二上山』なる弟を明日から見守ろうと
いう意欲である。そして、発散されたこの強い意欲こそが、一首に、弟の死に対
する諦観をしみ通らせることになった。今や、生きて弟を見守る者は『我れ』一
人しかなく、それゆえに死を死として認めようというのである。一首、冷厳簡古
な傑作といわなければならない」。

なお、大伯皇女の上記題詞のもとにおける第二首(166)を、本集4月17日に掲載
しています。その歌とメモをご覧ください。


10月13日
「挽歌」中、天武天皇の代の、題詞「一書に曰く、天皇の崩じたまひし時に、太
上天皇の御製(つく)りたまひし歌二首」(新日本古典文学大系)の第二首。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)によれば、
「天武天皇崩御の時、皇后は長歌、短歌の幾つかをものした。萬葉に伝はるもの
のうち、『星離り行き』は最も鮮麗で、それゆゑに深い悲しみが伝はる。完璧無
比の、怖るべき好伴侶であつたこの人の、心の底の映つてゐるやうな深い翳りを
もつ挽歌だ。青雲が星を離れ月を離れるやうにとは、みづからを『太陰』とする
心。凄じい執念ではないか」。


10月14日
作者不明歌巻の巻十「秋の雑歌」中、題詞「蟋(こほろぎ)を詠む」三首の一。

なへ──「[助]《ナは連体助詞、ヘはウヘ(上)のウの脱落形。ウヘには物に
直接接触する意があるので、ナヘは、『…の上』の意から時間的に同時・連続の
意を表わすようになった。用言の連体形を承ける》…と共に。…と同時に。…に
つれて」(岩波古語辞典)。


10月15日
水島義治『萬葉集全注 巻第十四』(有斐閣刊)によれば(摘記引用)、
口語訳
 「苗代に生えている子水葱の花を
  着物に摺り染めにして着馴れるように、この女も
  馴染むにつれてどうしてこんなにも可愛いのだろう」、

「衣に摺り──いわゆる摺り染め。女に手を付けたこと、すなわち関係をもった
ことを譬えている。
馴るるまにまに──情交久しきことを譬えている。『まにまに』は(イ)思う通
りに、事の成り行きにまかせて、(ロ)〜につれて、〜に従って、の意の副詞。
ここは(ロ)。
何故か愛しけ──『愛しけ』は『愛しき』の訛り。『あぜ』は中央語の『なに』
『など』『いかに』に当たる東国語。当時、中央語には『なぜ』という語は存在
しなかったから、これを『なぜ』の転訛と認めることはできない。『あぜ』は東
歌に『何故(あぜ)か枕かさむ』(3369)以下八例を数える」。


10月17日
巻四は巻二に次ぐ「相聞」歌巻。大伴家持と女性たちとの贈答歌が多い。この歌
も、笠女郎が家持に贈った24首のなかのひとつ。

新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
口語訳
 「私の命が 続くかぎりは なんで忘れましょうか
  日ごとにさらに 思いが増さることはあっても」、

「全けむ──マタケは、完全である、無事である、の意の形容詞マタシの未然形。
いや日に異には──イヤは、いよいよ。日ニ異ニは、日増しに、の意」。


10月18日
同じ巻十の「春の雑歌」「春の相聞」の各冒頭七首と同様、柿本人麻呂歌集から
採られた「秋の相聞」冒頭五首のうちのひとつ。

おほほし──「[形シク]〈上代語。「おぼほし」「おぼぼし」とも〉ぼんやり
している。はっきりしない。《参考》形容動詞『おほ(凡)なり』の語幹『お
ほ』を重ねた『おほおほし』がつづまったもの」(全訳読解古語辞典)。

新日本古典文学大系『萬葉集 二』には、
「上二句は『おほほしく』の序詞。『おほほしく』の原文、西本願寺本・紀州本
など『夙々』。『夙々』は『凡々』の誤りかとする〔賀茂真淵〕『萬葉考』に拠
っておく。『おほほしく』の訓は、沢瀉〔久孝〕『〔萬葉集〕注釈』に拠る』
とあり。


10月19日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所
収)中の、江野沢淑子氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 赦(ゆる)されて都に帰って来た人が今日到着したと人々が言ったの
で、(嬉しくて)ほんとに死ぬばかりの思いをしました。あなたがお帰りになっ
たのかと思って。
[鑑賞] この歌は狭野茅上娘子の歌である。娘子は、当時、平城宮廷の女嬬
(じょじゅ)であって、采女(うねめ)から選ばれたらしい。采女はその出身の
土地の名を名のる。紀伊国牟婁(むろ)郡に狭野(さの)があるので、その地の
出身であろうか。「茅上」を「弟上(おとがみ)」とする説もある。天平一二年
(740)の『続日本紀』によると、大赦がしかれ、流人の廷臣五人が都に帰って
来たが、〔神祇官で、娘子との結婚ゆえに越前国に流罪となった、中臣(なかと
みの)〕宅守(やかもり)は「赦す限りに在らず」とされて、都には帰っていな
い。その意味においても、直接、史実にかかわる貴重な一首である。「帰り来
(け)る人」は、罪を許されて都に帰って来た人。「来れり」は「来至(きい
た)る」の転であるキタルに助動詞のリが接続した形。人の到着、季節の到来に
ついて用いることが多い(一・28等)。「ほとほと死にき」の「ほとほと……
き」は「危うく……することだった」の意。「ほとほと」は、ほとんど。ひたす
ら恋い、ひたすら待ち続けた娘子の、情熱的表現である。「君かと思ひて」は、
君が赦されて帰って来たのかと思って。その時には、宅守は赦されていなかった。
この歌について土橋寛は「宅守は大赦に漏れて帰ってこなかったのであるが、茅
上娘子はその時の失望を歌わずに噂を聞いて喜びに胸を躍らせた感動を歌ってい
る。茅上娘子の歌はいつも現実でなく、空想を、悲しみや失望でなく、喜びや希
望を歌う」(『万葉開眼』)と評しているが妥当であろう。この歌には、失望は
歌われておらず、死ぬばかりの思いをした嬉しさを、ひたすら宅守に訴えている
のである。待ち人がついに現れず、悄然と家に帰った娘子は泣きに泣いた。そし
て心に浮かぶのは、宅守に対しての哀切な意志表明であった。「我が背子が帰り
来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな」(十五・3774)。

上記3774歌は来月掲載予定。
狭野茅上娘子の歌は、本集ではこれまで、1月31日、2月16日、5月25日、6月27
日、7月31日に掲載。


10月20日
巻一(「雑歌」歌巻)、持統天皇の代の歌。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「当麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻が夫の旅に出た後詠んだものである。
或(あるい)は伊勢行幸にでも扈従(こじゅう)して行つた夫を偲(しの)んだ
ものかも知れない。名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。『奥つ
藻の』は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隠れてゐる藻だから、カクルと同
義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。
 一首の意は、夫はいま何処(どこ)を歩いてゐられるだらうか。今日ごろは多
分名張の山あたりを越えてゐられるだらうか、といふので、一首中に『らむ』が
二つ第二句と結句とに置かれて調子を取つてゐる。この『らむ』は、『朝踏ます
らむ』〔本集4月1日掲載歌、間人老(はしひとのおゆ)作「たまきはる宇智の大
野に馬列(な)めて朝踏ますらむその草深野」〕あたりよりも稍(やや)軽快で
ある。この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは萬葉集の歌としては分かり好く
口調も好いからであつたが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあると
謂(い)つていいであらうか。併(しか)しそれでも古今集以下の歌などと違つ
て、厚みのあるところ、名張山といふ現実を持つて来たところ等に注意すべきで
ある。
 この歌は、巻四(511)に重出してゐるし、又集中、『後れゐて吾(あ)が恋
ひ居(を)れば白雲(しらくも)の棚引く山を今日か越ゆらむ』(巻九・1681)、
『たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ』(巻十二・3193)、
『息の緒に吾(あ)が思(も)ふ君は鶏(とり)が鳴く東(あづま)の坂を今日
か越ゆらむ』(同・3194)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである」。


10月21日
巻三「雑歌」中。

伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
題詞「高市連(むらじ)黒人が羈旅の歌八首」の第一首、
「『赤のそほ船』は、……官船らしい。先ほどまで山下にいた船が、早くも沖の
かなたに小さく漕ぎ進んでいるという観点には、黒人特有の、去っていくもの、
隠れて見えなくなっていくものへの感慨が込められ、その心細い景と、上に『も
の恋しきに』と述べている心とがつながりあって、深い郷愁を示す。つながりは、
その船が都の息吹を漂わせる朱塗りの官船であることによって、さらに深まる。
消え行く船に、自己の前途や人間の宿命を読み取ったようなあわれがある。蒼い
海に染みつくような朱の動きは、黒人の心の底に燃える郷愁の火であっただろ
う」。

多田一臣編『万葉集ハンドブック』(三省堂刊)の「第二部 万葉秀歌」─「第二
期の和歌」(多田一臣氏執筆)には、
「結びが『〜見ゆ』とあるように、国見歌(くにみうた)の系列に属する歌であ
る。『山下の』とあるから、黒人は高みに立って眼下の景を眺めている。しかし、
眼差しのなかの景は讃美の対象としてはうたわれない。その目に映ずるのは沖へ
向かって漕ぎ出す『赤(あけ)のそほ船』である。『赤のそほ船』は『そほ(赭
土〈そおに〉)』を塗った船。赤は魔除けの意味をもった。……『赤のそほ船』
は消えゆくものとしてとらえられている。拠り所がないともいえるが、ならば
……旅の不安は鎮めようがない。『物恋(ものこほ)しきに』はそうした不安の
表出としてある。しかも恋うべき対象は具体的には示されない。黒人は家郷や妹
(妻)への思いを直接にはうたわない。不安を抱えた孤独な心は、鎮められるこ
となく投げ出されている。沖へ消え去る『赤のそほ船』は、……黒人自身の姿を
写し出す」 とある。


10月23日
伊藤博『萬葉集全注 巻第一』によれば(摘記引用)、
題詞「〔大宝〕二〔702〕年壬寅(みづのえとら)に、太上天皇(おほきすめら
みこと)〔持統〕、三河の国に幸(いでま)す時の歌」の第1首。
「にほふ榛原──『にほふ』は色の照り映える意。『榛原』は榛(はんのき)の
立ち続く原。
入り乱れ──『乱る』は四段と下二段とに活用し、四段は他動、下二段は自動の
性格を持つ。乱しての意ではないから、ここはイリミダレと訓む。
衣にほはせ──衣を色づけよの意。榛は実や樹皮を染料にする。ここは、その黄
葉の色で染めることをいう。ただし、黄葉の色で衣を染めることは事実としては
ない。これは幻想である。『にほはす』は、『にほふ』を他動詞にはたらかせた
もの。ここは命令形。
旅のしるしに──『しるし』は、甲斐、目印し、前兆などの意に用いられる。こ
こは、目印し、証拠」。


10月24日
巻九中、「挽歌」冒頭の、柿本人麻呂歌集からの五首のうち、題詞「紀伊国(き
のくに)作歌四首」(1796〜1799)のひとつ。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)によれば、
「紀伊の国の歌枕玉津島、その玉が『真砂』と響き合つて、『妹』がさらに匂ひ
立つ。『匂ふ』には元来、まづ第一に草木や赤土などの色に染まる意があつた。
彼女の触れて通つた海岸の砂ゆゑに、わが衣も摺りつけて染めて行きたいほどだ
との、愛情表現であつたらう。『古(いにしへ)に妹とわが見しぬばたまの黒牛
潟(くろうしがた)を見ればさぶしも』〔1798〕も挽歌四首の中の作」。


10月25日
巻十中「秋の雑歌」の、題詞「露を詠む」のひとつ。

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』によれば、
「どうも単純でいい。第三句で一旦言ひさして、四句以下一息に言ひ下してゐる
具合至妙である。『言ひさし』の句法は多く歌柄を大らかにする。『渡津見の豊
旗雲に入日さし今宵の月夜まさやけくこそ』〔巻一・15〕、『久方の天(あま)
行く月を網にさしわが大君は蓋(きぬがさ)にせり』〔巻三・240〕、『茜根刺
す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』〔巻一・20〕等を参照せんを望む。
『とをを』は『撓(たわ)むほどに』の意。露霜は白露(はくろ)である。将
(まさ)に霜に至らんとする露である。一読して露気襟に滲(し)むを覚えしむ
る歌である」〔下線部、引用元では圏点付き〕。


10月26日
伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
題詞「紀女郎、大伴宿祢家持に贈る歌二首」〔脚注「女郎、名を小鹿といふ」〕
の第一、
「『老人の恋』を主題としてやりとりしたもの。天平十二年(740)頃のことで、
家持は二十三歳。紀女郎は安貴王(あきのおおきみ)の妻で、家持よりは十歳以
上年長であったらしい。知人としてごく親しい仲がこういう年齢の関係であった
ためにさような主題を持ちこむことになったのであろう。
 女郎の第一首(762)は、
  もう老いぼれだから恋どころではないと拒むわけでは
  ないのです。そうはいうものの、こうしてお断りしたあとで
  さびしい気持になるのかもしれません。
の意。未練は残ると相手をそらさぬよう気を配りながら、求愛を断っている。
 続く第二首(763〔玉の緒を 沫緒(あわを)に搓(よ)りて 結べらば あ
りて後にも 逢わずあらめやも〕)は、
  互いの玉の緒の命を、沫緒のようにやわらかく
  搓り合わせて結んでおいたならば、生き長らえてのちにも
  お逢いできないことがありましょうか。
(補注 沫緒──未詳。糸を緩く搓り合わせた緒をいうか。伸び縮みの融通がき
くことから、今は駄目でものちには、の意を示すのに適うものして持ち出された
のであろう。)
の意。前歌の「後」を互いの将来の意に転じてうたっている。将来に望みを託す
かたちを取ることで、言外に今逢うことを断っている」。〔明日に続く〕


10月27日
〔承前(伊藤博『萬葉集釈注 二』)〕
「対する家持の歌は、
  あなたが百歳の婆さんになって、老舌をのぞかせ
  よぼよぼになっても、私はけっしていやがったり致しません。
  恋しさが募ることはあっても。
の意。相手が年齢にこだわるかたちで遠回しに断ってきたのを、わざとまともに
承け取りながら答えたもの。私の方はいっこうにかまいません、心変わりせずい
ついつまでもお待ちしますと出られては、返す言葉はない。この贈答、年下の家
持に軍配があがるかたちになっている。それだけ、紀女郎が家持に心を明るく許
していたことが知られる。一方では、女の貫禄でもある。


10月28日
巻十、「秋の相聞」、題詞「黄葉に寄す」。

日に異に──「(副)日ごとにますます」(例解古語辞典第二版)。


10月29日
「東歌」を総題とする巻十四の、「相聞」中、「駿河国歌」。

水島義治『萬葉集全注 巻第十四』によれば(摘記引用)、
「天の原──枕詞。大空高く聳え立つ意から富士にかかる。
富士の柴山──富士山麓の樹林地帯。ここまでの上二句、三句の『木の暗』を導
く懸詞的序詞。
木の暗──木の下闇の夕暮れ時。『木の暗』(木の昏、すなわち木が繁って暗い
こと)に『此の暮』を懸けた。
時移りなば──(約束した)この夕暮れ時が過ぎてしまったならば。『ゆつり』
は『移り』の意。ただし、『移る』が状勢が変化・変転する、紅葉が散るなどの
意を表わすのに対して『ゆつる』は、時間が過ぎる、月が空を渡るなどの意を表
わすもので、簡単に両存形(ダブレット)、あるいは『ゆつる』は『うつる』の
古語とは言い難い。『月はゆつり(由移)ぬ』(四・623)、『清き月夜(つく
よ)のゆつり(湯徙)なば』(十一・2670)などの例がある。東国訛りではない。
逢はずかもあらむ──もう逢うことができなくなるのではなかろうか。二度と逢
えなくなるのではないかと案じているのである」。


10月30日
「相聞」、持統天皇の代の歌。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
題詞「但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時に、穂積皇子を思(しの)ひて
作らす歌一首」、
「天武天皇の異腹の皇子皇女三人をめぐる悲恋の歌。高市皇子の宮に同棲してい
た但馬皇女が〔高市皇子より〕若き穂積皇子と通じた折の、皇女の歌である。……
 狭い宮廷社会での異母きょうだいをめぐる密通事件は、人びとの好奇心にとっ
て願ってもない好餌であっただろう。
  秋の田の稲穂が一方に片寄っているその方寄りのように、
  ただひたむきにあの方に寄り添いたいものだ。
  どんなに人の噂がうるさくあろうとも。
という」意。「人びとの噂を覚悟しての歌である。高市皇子はこの頃世を執り治
める太政大臣(持統四年七月拝命)。皇太子のいない時代の太政大臣で、文字ど
おり持統女帝股肱(ここう)の筆頭であった。妻妾とはいえ、そういう人の妻の
一人が、しかも皇女という身分にある人が、夫の弟皇子とねんごろな仲におちい
ったとあっては、世間がただでおくわけがない」。

万葉集中の但馬皇女の歌は、作者存疑の歌(巻八・1515)を除き、本日と4月14
日、5月12日に掲載のものですべて。
但馬皇女の薨去後に穂積皇子がうたった歌は2月7日に掲載。
それぞれの歌とメモを、「ふばこ」でご再読ください。


10月31日
「雑歌」中、題詞「柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来る時に、宇治河の辺(
へ)に至りて作る歌一首」(新編日本古典文学全集『萬葉集 1』)。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「柿本人麿が近江から大和へ上つたとき宇治川のほとりで詠んだものである。
『もののふの八十氏(やそうぢ)』は、物部(もののふ)には多くの氏(うぢ)
があるので、八十氏(やそうぢ)といひ、同音の宇治川(うぢがは)に続けて序
詞とした。網代木は網の代用といふ意味だが、これは冬宇治川の氷魚(ひを)を
捕るために、沢山の棒杭を水中に打ち、恐らく上流に向つて狭くなるやうに打つ
たと思ふが、其処(そこ)の棒杭に水が停滞して白い波を立ててゐる光景である。
 この歌も『あまざかる夷(ひな)の長道(ながち)ゆ』〔三・255(本集6月2
日掲載)〕の歌のやうに、直線的に伸々とした調べのものである。この歌の上の
句は序詞で、現代歌人の作歌態度から行けば、寧(むし)ろ鑑賞の邪魔をするの
だが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばな
らぬ。さうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且(か)つ
無限の哀韻を感得することが出来る。この哀韻は、『いさよふ波の行方(ゆく
へ)知らず』にこもつてゐることを知るなら、上の句の形式的に過ぎない序詞は、
幾度も吟誦してはじめて心に伝はり来るもので、平俗な理論で始末すべきもので
はない。
 この哀韻は、近江旧都を過ぎた心境の余波だらうとも説かれてゐる。これは否
定出来ない。なほこの哀韻は支那文学の影響、或(あるい)は仏教観相の影響
だらうとも云はれてゐる。人麿ぐらいな力量を有(も)つ者になれば、その発
達史も複雑で、支那文学も仏教も融けきつてゐるとも解釈出来るが、この歌の
出来た時の人麿の態度は、自然への観入・随順であっただけである。その関係
を前後混同して彼此(かれこれ)云つたところで、所詮(しょせん)戯論に終は
るので、理窟は幾何(いくばく)精(くは)しいやうでも、この歌から遊離した
上の空の言辞といふことになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として軽蔑す
るが、自分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである」。

「八十宇治川」は、新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
「宇治川に同じ。宇治川は琵琶湖に発した瀬田川が京都府に入ってからの名。巨
椋池(おぐらのいけ)に注ぐ河口付近で幾筋にも分流していたところから八十宇
治川ともいったのであろう」。





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